霊的な話の危うさ
私には、霊的な話をこう語りたいという芯があります。
けれど霊的な話を語り始めると、多くの人は無意識に「救いの拠り所」や「教祖」を求め始めます。
「この人についていけば大丈夫」
「やっと答えにたどり着いた」
「この人の言うことに従っていれば安心だ」
一見、正しそうな話であればあるほど、このような「受け手の思考停止」が、いとも簡単に発動するのです。
まず、知っておくべきこと。
それは、「そういう安心に浸りたい重力のようなものが、人間にはデフォルトで働いている」ということです。
問題は「話の真偽」より深い部分
問題は、その話の内容が本当に正しいか、という真偽そのものではありません。
本当の問題は、「安心に浸りたい心から教祖への依存が生まれ、やがて陣営ができる」こと。
そして、「右翼と左翼のように戦いが始まり、我こそが正しいという「聖杯」を掲げ始める」ということです。
Xに次のようなポストがあり、この現象をよく表していると思いました↓
この構造から人はいつか卒業し、自分の頭で本当に考えて、人生を歩み始めなくてはなりません。
そう言う人が、このブログを読んで欲しい方です。
このような愚かな歴史は、何度も繰り返されてきましたが、人間とはそういう生き物であると、よく理解しておかなくてはなりません。
発信者の意図とは裏腹に発生する流れ
ここで厄介なのは、発信者に「その意図」があるかどうかではありません。
たとえ本人にその意図が明確にはなくても、影響力が広がれば広がるほど、構造として「教祖化の流れ」が自然発生しやすいということです。
霊的な話は、正しく語れば人を正気に戻すための道具にもなり得えます。
その一方で、徐々にその理解が歪められ、いつのまにか人は「極端さ」へと導かれます。
やがて思考は停止し、依存と戦いが発生します。
それが、霊的な話を語るリスクであり、妄信し思考停止状態となった人が行きつく末路です。
教祖化や極端さが生まれたとき、その流れにブレーキをかけるかどうかは、最終的に発信者の倫理観に委ねられると思います。
だから私は、発信の手が止まる
私はその危うさを理解しながら「一体これをどのように伝えればよいのか」と、ここ数ヶ月は情報発信止まってしまっていました。
「そうならないように細心の注意を払いながら文章を書けるのか」
そう思えば思うほど、言葉の出し方は難しくなるという壁にぶち当たりました。
私の意図とは裏腹に、誰かを盲信させてはならない。
「ここに居れば安全だ」という特別な場所を作ってはいけない。
私の名前を掲げた陣営も、そこで生まれる戦いも望んでいない。
では、語ること自体に意味がないのではないか。
そして、ネット上の情報発信から退くべきなのかもしれない、とも考えました。
その間で揺れ、言葉を出すことが止まってしまっていました。
ブログが更新できないのは、この葛藤の中にいたからです。
それでも語らなければ、この情報を必要としている人にすら届かない、と気付きました。
必要としている人がいつかこの文章を目にするかもしれないと考え、そのためだけに綴りたいと思います。
カリスマ性はいらない
カリスマ性は、広く強い影響力を生みます。
過去、私が企画・制作したYoutubeは右肩あがりに再生回数や登録者が伸びていきました。
しかし、私はそこにも危うさを感じ、発信を止めました。
私は「広く強い影響力」は必要ないと思っています。
カリスマ性が強くなればなるほど、「私を見なさい」「私についてきなさい」という強い引力が発生します。
私がそう意図していなくても、そう受け取りたがる「依存心や弱さ」があるのが人間です。
私は、広く惹きつける影響力を捨てる代わりに、私が捉えている霊的構造と世界観を、
淡々と、そして正確に語りたいと思っています。
必要な人が、必要なタイミングで情報を拾える、そういうブログにしたいのです。
私が語りたい真理の質
私に見えている霊的な世界観は、甘いものではありません。
願いは簡単には叶いません。
忍耐が要ります。
時に世間は冷酷で冷たく、人間臭い側面もあります
でも同時に、そこには人間にしか感じられない温かさがあり、人間だからこそ味わえる喜びがある。
その中で魂は成長する。
ただし、「魂が成長するための答え」はそのときの条件、状況によっていかようにも変わるもの。
聖杯はありません。
神様の用意した現実は、望みを叶える夢の国ではありません。
魂の未熟さを、成熟へと運ぶための川のようなものです。
その真理をいつのまにか誤読して、救済や聖杯らしきものにすがってしまえば、
人は「魂の成長の振り子運動」を止め、極端へ傾き、正気を失っていくものです。
私は、そういう正気を失った生き方をもう辞めたいと決意した人が、このブログを手に取れるように、と思っています。
本当の正気とはなんなのかを思い出す受け皿となれば、と思っています。
「自分の力で考えて生きる」ために
いまの私には、まだ表現力が足りず、どこまでも表現しきれていないと感じています。
きっと完全に表現できることはないのだろうと思いながらも、できるかぎり「霊的真理」のその質感をもっと正確に、もっと届く形で言葉にしたいのです。
それが私が魂を込めて行いたい仕事です。
霊的な話は、伝え方を間違えると人を狂わせます。
だからこそ私は、急がず、雑に表現せず、読み手がどう受け取るか?に細心の注意を払いながら進みます。
派手さは要りません。
多くの人に迎合しません。
私は私の役目を、出来る速度でやってまいります。
このブログは、「正しそうな誰か」を信じるための場ではありません。
盲信ではなく、自分の頭で考えて生きてください。
そして、その考えに慢心せず、常に正しながら、その目で確かめながら生きてください。
そのために、このブログを使ってください。


コメント