結論:中庸とはカルマを生まない状態
最初に結論ですが、
中庸とは、少なくともカルマを積んでいない状態です。
逆に、カルマを積んでいる状態、あるいは積み続ける状況は中庸ではありません。
中庸とは、表面的な平穏さが保たれている状態だけではダメなのです。
例えば、水面下では怒り、恨み、妬み、嫉妬といった悪感情が渦巻いているのに、見た目は穏やかなフリをしている場合。
それはエネルギーのひずみが生まれている状態ですから、中庸ではありません。
そういったひずみを生まず、現実の中で自分および関わる人間関係において、調和が成立している状態が中庸です。
カルマを生んでいる状態とは
一言では言えませんが、ざっくり言うと以下はカルマを生んでいる状態です。
誰かの無理の上に成り立っている。
人の尊厳が削られている。
誰かの自由意志を黙って搾取することで保たれている。
こういった状態です。
そういう歪みがない状態=カルマを生んでいない状態こそが、中庸です。
「調和の押し付け」では成立しない
ここで誤解しやすい点を整理します。
中庸は「私はこれが調和だと思う」という自己申告だけでは成立しません。
「自分にとっては調和だから」という言葉で、人に何かを押し付けて成立するようなものではないのです。
むしろ本当に中庸かどうかは、誤魔化しがきかないのです。
具体例:奴隷制度
また、調和を図るために、結果として「歪みの中心にいる存在が淘汰される」ように見える場面は起きます。
例えば、イギリスが奴隷制度を廃止したときの例が分かりやすいです。

※画像は、植民地支配からの解放運動を率いたマハトマ・ガンジーです。
奴隷制度は、片側の繁栄や秩序が、もう片側の尊厳の侵害によって成立する仕組みです。
つまり制度そのものが「カルマを生む構造」になっています。
奴隷制度が解体されるとき、淘汰される側(奴隷を使っていた側)からすれば「自分たちの調和を壊された」と、憤りを感じるかもしれません。
ですが、カルマを生む構造が解かれ、より人の尊厳に重きを置き、
関わる全体を含めて、魂の「悪」が浄化される側へ向かう流れになっていれば、それは「中庸の選択」です。
奴隷を使う側からすれば「自分たちの生活が壊された」と一時的には感じても、大きな構造としてはカルマを終わらせるための方向です。
中庸とは、このようにカルマの生産を終わらせる方向性を含んだ調和です。
まとめ
中庸とはカルマを積んでいない状態。
エネルギーがもつれていない状態。
そして現実の中で歪みを新たに生まず、ほどく方向へ向かう姿勢です。
自己申告の調和でも成立しないし、現実の反応だけがその真偽を返してくるシビアなもの。
それが、カルマの視点で見た中庸です。



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