人は「暴力」か「魂の秩序」かを選ばされる|非暴力は逃げではなく、魂の秩序

3.Yuukaのつぶやき

この記事では、ネット上の誹謗中傷から歴史上の迫害まで、スケールは違っても根本の構造は同じだという視点で整理します。

その状況に直面したとき、人は「暴力に加担するか」「霊的秩序を守るか」を選ばされます。

非暴力は、敗北や逃げではありません。

内省と防衛を伴った現実的な選択こそが、魂が守るべき秩序であるとご紹介していきます。

ネットで目にした誹謗中傷のリアル

最近、誰かの言動によって傷ついたり、理不尽な思いをしたりしていませんか。

Xで目にしたこちらの投稿が気になりましたので、参考としてリンクを紹介させていただきます↓

投稿では、長期間にわたり誹謗中傷を受けてきたご家族が、開示請求を経て、最終的に謝罪文の掲載に至った事例が紹介されていました。

ネット上の誹謗中傷がどのように起き、どのような結末に至り得るのかを、リアリティをもって突きつけられる内容です。

誹謗中傷に遭ったとき、多くの人が迷います。

声を上げるべきか、黙って耐えるべきか。

反撃したい気持ちと、そうしてはいけない気がする自分の間で、揺れている人もいるかもしれません。

どの時代にも必ず現れる共通の構造

私は最近、歴史をあらためて学び直しています。

世界史を、霊的視点や宗教的背景から読み解いていくと、学生の頃とはまったく違うものが見えてきました。

そして、上記にご紹介した誹謗中傷にも通ずる、どの時代にも必ず現れる共通の構造があることに気づきます。

それが、迫害する側と、迫害される側です。

歴史的には、国の統治、奴隷制度、宗教戦争。

個人間では、誹謗中傷、いじめ。

スケールは違っても、これらの構造自体は、私たちの日常の人間関係も歴史上の出来事も、驚くほど似ています。

重要なのは、起きた出来事そのものが何であったか、ではありません。

それらの出来事に直面したとき、「自分の魂は、何を選択するか」です。

正義が「暴力の免罪符」になるとき

歴史を追っていくと、加害する側の暴力は「それが正しいから」という理由で行われていることがほとんどです。

「正義」を理由に、誰かを攻撃することは簡単です。

誰かを「悪」と決めつけ、自分は正しいと信じ切り、弾圧する。

周囲もそれを善行だと認めてくれれば、人は安心して暴力的に加担することができます。

この構造は、ネット上の小さな誹謗中傷から、国家規模の迫害まで、スケールの違いこそあれ、本質は同じです。

歴史上でいえば、ナチスのヒトラーがその典型でしょう。

当時のドイツは、多くの人々は思考を止め、内省を失っていました。

そして正義の名の元、罪のない市民を大量に虐殺したのです。

今回引用させていただいた上記Xポスト内、誹謗中傷の詳細にも、「みんなに迷惑だ」といった、根拠のない加害側の正義めいた言葉が並んでいました。

「正義」は、とても強力な免罪符です。

それは、暴力を正当化するための、最も危険な仮面だと言えるでしょう。

この仮面をかぶると、人は自分が加害者であるという事実を見られなくなります。

良いことをしていると、本気で信じ、疑うことすら放棄してしまうからです。

そのようにして迫害される側は、理由も分からないまま責められたり、言葉で傷つけられたり、排除されたりします。

そのとき、多くの人が心の中で問いを抱えます。

暴力でやり返すべきなのか。

それとも、耐えるべきなのか。

あるいは、別の何かなのか。

その選択次第で、魂の進路が分かれます。

やり返さないことは、弱さではない

同じ暴力で返せば、被害者・加害者の立場が入れ替わるだけで、同じレベルになってしまいます

つまり、迫害されていた側も、加害する側と同じ、どんぐりの背比べとなってしまいます。

ですが、暴力を選ばず、信念を曲げず、魂の秩序をもって在り続ける選択もあります。

それは、弱さではありません。

肉体的に、あるいは社会的に、損をすることはあるかもしれません。

ときには、敗者に見えることもあるでしょう。

それでも、魂が堕落することはありません。

正しく内省することも必要

そしてもうひとつ、大事なことがあります。

もし自分が、他者を踏みにじったり、傷つけるような言動をしていた事実があるなら。

それは潔く認め、反省する必要があります。

加害側の暴力の理由に自分も関与しているならば、それは反省が必要ということです。

(自分が原因となったカルマを、自分で摘んでいるだけ、ということもあります)

ここで大事なことは、それは単なる加害側の八つ当たりや当てこすりなのか。

あるいは自分にも理由があるのか。

その見極めを、感情論ではなく、客観性を持って正しく行わなければならないということです。

いかなる理由があっても暴力は正当化されない

さらに、ここで勘違いしてはならない点があります。

自分に理由があった、だからといって相手が暴力でやり返す行為が正当化されるわけでもありません。

暴力は、必ずカルマになります。

自分が暴力を振るえば、自分のカルマ。

相手が暴力を振るえば、相手のカルマ。

他人のカルマを肩代わりすることは、できません。

ですから、この境界線をしっかりと引き、

どこまでが誰の責任なのか。

そこでは一体何が正当化されているのか。

その事実関係を正しく把握し、筋を通して理解しなくてはなりません。

※相手が暴力を振るえば、相手のカルマと言いましたが、正確にはこの限りではありません。

たとえば、未成年の子が親の行いが原因で暴力を振るうケースもあります。

(心のSOSのサインが暴力として現れている場合など)

ですから、すべての暴力が、本人のカルマとして帰属するわけではありません。

因果がどのように現れているかは、ケースバイケースです。

ただ、基本的な考え方は上記の通りです。

無防備でいろ、という意味ではない

非暴力とは、無防備でいろ、という意味ではありません。

ここは誤解しないでください。

暴力では返さない、しかし防衛は大事です。

自分を守るために、距離を取る。

関わり方を変える。

相手と自分に境界線を引く。

必要なら、記録を残す。

相談できる場所に相談する。

こうした「現実的な防衛」は、暴力ではなく、魂の品位を堕とすことにはなりません。

加害側の魂が選んだ選択を、あなたが引き受ける必要はありません。

相手の暴力に巻き込まれないように、自分の生活と心を守ることは、むしろ健全であり、地に足の付いた選択であると言えます。

非暴力を選ぶというのは、我慢や自己犠牲ではありません。

「私は暴力に加担しない」と、自分で決め、秩序を守り続けることです。

魂の主導権を、誰にも明け渡さないという選択です。

現世の勝ち負けと、魂の成長は別物

「なぜ、やり返さないのか」と言われることもあるかもしれません。

それは、多くの人の視点が、現世の勝ち負けだけに固定されているからです。

魂の視点で見れば、その場で勝つことと、魂が前に進むことは、まったく別です。

迫害する側は、相手を屈服させたと思うかもしれません。

けれど実際には、「目的のためなら、人を傷つけることも厭わない」という記録を、自らの魂の履歴に刻みこんでいるに過ぎません。

一方、迫害される側は、本質的には何も奪われていません。

奪われたように見えるのは、外側のものだけです。

信念を曲げなかったという事実は、魂にとって確かな前進になります。

歴史を振り返れば、それは明らかです。

名前が残っているのは、迫害した者ではありません。

迫害されながらも、自分の内なる秩序「暴力を正当化しない」「非暴力」「人を傷つけない」を守り続け、そして「自分で在り続けた人たち」です。

この話は、なにも特別な時代や昔の話ではありません。

今この瞬間も、職場や家庭、ネット上のやり取りの中で、起き続けているものです。

肉体的な暴力から、言葉・態度による精神的な暴力まで。

誹謗中傷に遭ったとき、問われているのは、暴力同士による勝ち負けではありません。

問われているのは、その場で自分が魂の秩序を選べるか、です。

この瞬間の選択が、あなたの魂の進路を決める

もし今、誰かに理不尽な思いをさせられているなら、あなたの魂は分岐点に立たされています。

暴力の世界線へと引きずり落されるのか。

それとも、「非暴力」という秩序を守り続け、自らの魂の品位を落とさずにいられるのか。

そして、客観性を持って正しい防衛策を取れるのか。

自由意志による選択が、あなたの魂の進路を決めます。

どうか、あなた自身の魂が成長の軌道から外れないように。

一時的な感情に流されず、客観性を持って生きていってください。

そして同時に、あなたの生活と心を守るための現実的な防衛を、冷静に行ってください。

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