中庸は「極端の往復」で体感として立ち上がるもの
中庸という中心の感覚は、最初から理屈で「ここが真ん中だ」と当てられるものではありません。
例えるなら、魂の成長は振り子のようなものです。(振り子の法則)
人生の中で、人はどこかで偏った価値観を持ち、なにかに依存し、そこに振り切れる。
さらに、振り切った先での現実が噛み合わない違和感や、人との軋轢という痛みを経験し、反動で逆側へ振れる。
この往復の中で初めて「中心の審美眼」が体感として立ち上がってきます。
霊的成長とは「バランスを取り戻す運動」
霊的真理というのは、わかったつもりになると慢心し、また無知へ戻ります。
けれど、「自分なんて何もわかっていない」と卑下するのも違います。
大切なのは、バランス感覚です。
振り子は左右に大きく振れるからこそ、真ん中の感覚をつかむことができる。
人は誰しも、一度は極端に偏り、そこから真ん中に戻るというプロセスを経て、はじめて霊的に成長できるようにできているのです。
霊的成長とは、そのように、常に「バランスを取り戻す運動」です。
具体例:人間関係、健康、お金、スピリチュアル
人間関係なら
「我慢し続ける他人軸(従属)」に偏る
→ 心身が限界になる
→ 反動で「もう誰にも合わせない」「自分最優先」という極端な自分軸に振れる
→ その往復で初めて、「主体性を持ちながら、思いやりを発揮する」という中庸の位置が見えてくる。
健康なら
「極端なダイエットで体重だけ落とす」
→ 体調やメンタルが崩れて限界が来る
→ 反動で暴食・過食やもう何も気にしない側へ振れる
→ その往復の中で、ようやく「無理のない自分の身体との付き合い方」の感覚が立ち上がる。
お金なら
「一攫千金を狙って、ハイリスクな投資をする」
→ 大損や依存で「どん底」を経験する
→ 反動で「なんとかお金を取り戻したい」側へ振れる
→ その往復の中で、欲と恐れのどちらにも呑まれないお金との適切な距離感が掴めてくる。
スピリチュアルなら
「全部宇宙(神様)任せで現実を見ないフワスピ側」へ偏る
→ 現実が崩れる・本当は負うべき責任から逃げられなくなる
→ 反動で「現実主義こそ正義」側へ極端に振れてバランスを崩す
→ その往復の痛みの中で、神様・法・現実の歩き方のバランス感覚が芽生える。
こんなふうに、極端の往復を通してしか中庸は体感されないものです。
だから極端に振れること自体が、魂の学習として必要な過程なのです。
中庸の感覚を養うために、必要な悪がある
魂の学習のために必須なのが、「極端に振れる体験」という必要悪です。
それは、中庸を見抜くための「相対の鏡」になります。
中庸とは、最初から一点を当てに行くものではありません。
振り子の往復の中で少しずつそのセンスが養われていくものです。
この振り子運動を繰り返すことこそが、魂の成長の現実的なプロセスです。
そしてそれが、魂が地球に降り立ち、人生を生きる意味でもあります。
揺れの修正こそ、中庸を理解する鍵
人は誰でも、心の中に二つの極を持っています。
たとえば「依存と自立」「善と悪」「自由と支配」のように。
どちらか一方に極端に偏りすぎると、魂はその揺れを修正しようとします。
その往復運動の中でしか、私たちは中庸という真の理解を得ることができません。
ですから、偏ること自体が悪いのではありません。
偏った経験を通してしか、真ん中の意味は体感できないようになっています。
霊的に成熟するとは、この往復の中で「どちらの極にも囚われずに、自ら中心感覚を思い出し、戻れるようになる」ことなのです。

コメント